はじめに

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八ヶ岳昌司と申します。
「純愛と寝取られ」をテーマとした官能小説を書いております。

 

私の書いている寝取られ官能小説は実体験に基づいています。
お恥ずかしい話ですが、私自身、大切な妻である真由子を、幾度となく他人に寝取られてきました。
そうした体験をするうちに、私はいつの間にかそれらの出来事を物語として書き綴るようになりました。

寝取られというものは、悔しさ、悲しさ、嫉妬といったどす黒い感情と、強烈な刺激と興奮が同時に巻き起こる、精神的にも肉体的にも非常に複雑な体験です。
その寝取られの切なさ、悲しさ、その中にある甘美な喜びと、否定できない快感を、私は物語として書き記し、他人に伝えたくなったのです。

 

私と妻の真由子は、お互いがまだ十代の初々しい恋人同士だった頃からの付き合いです。
真由子が二十歳の頃、彼女の浮気をきっかけに私達は何時の間にか寝取られの道に足を踏み入れ、私達は若くして寝取られ性癖のカップルになってしまいました。

その様子は、私の代表作のひとつである「どこにでもいる寝取られ夫婦のお話」に詳しく書かれています。

 

 

当時はまだ寝取られという行為は今ほど世間に認知されておらず、私達は自分達の性癖に悩み、戸惑いました。それと同時に、抜け出せなくなるほどの興奮と快感に夢中になりました。私達はお互いに愛し合えば愛し合うほど、なぜか奪われることが気持ちよくなるという、この矛盾に満ちた秘密のセックスに嵌まり込んでしまったのです。

 


今では「寝取られ」「NTR」というものは広く認知され、アダルトの人気のジャンルとして市民権を得た感があります。

しかし私はそこに違和感があるのです。
寝取られというものは、ただのセックスではありません。
夫婦や恋人という関係性があり、また愛し合う二人の物語があるからこそ、初めて成立する行為です。

そして愛がなければ成立しません。
寝取られというのは、他人のチ○ポによって、愛し合う二人の関係が引き裂かれてしまう出来事です。
そのためには二人の間に深い愛情がなければ成立せず、また引き裂かれる二人の愛情が、純愛であればあるほど、寝取られの衝撃と興奮は高まるのです。

ですから本当の寝取られを描くためには、純愛を描かなければなりません。
私が何よりも純愛にこだわって寝取られ小説を書いているのは、それが理由です。

 

そして本当の寝取られを書くためには、まず愛の物語を書かなければなりません。

世の中にあふれているNTRものの作品は、この部分が欠けています。
多くのアダルトビデオでは、寝取られる二人の関係性や物語を描くには不十分で、単なるセックスと変わらないものが大半です。

またコミックの形態で描かれたものでも、寝取られの本当の姿を描くことが出来ているものは、多いとは言えません。寝取られの本質とは、セックスという肉体的な行為ではなく、寝取られる側であるカップルの心理の中にこそあるからです。

そこには、ただ奪うだけのセックスでは描くことの出来ない、奪われる側の複雑な感情と、背景となる物語があります。

そしてその矛盾に満ちた心理の中には、男と女の関係の本質、セックスの真実、そして人間の本性までもが見え隠れしているように思います。

 

その複雑な心理と、物語を描くため、私は小説という方法を選びました。
主観的な語り口で、寝取られる側の気持ちを克明に描くことでしか、寝取られの本当の味は表現することが出来ないと思うからです。

 

最高に美しい純愛が、最低にゲスな寝取られによって引き裂かれる。
そんな物語を書くのが理想です。

けれども二人の愛は、それで終わることはありません。
たとえボロボロになるまで奪われたとしても、それでもお互いを愛し続ける。
そんな、ほのかな希望の残る結末を描きたいと思っています。