寝取られ夫婦は子供が欲しい
今回は少しだけ真面目な話になります。
ですので告白する言葉にも熱が入ります。
寝取られ性癖を持つ私達夫婦ですが、子供については話が別になります。
私、昌司と、妻の真由子が、時折他人に寝取られずにはいられない性癖を持ち、そういった下半身の生活を送ってきたことは事実です。
しかし、その下半身の性癖と、子供の人格、人生とはまったく関係がありません。
どんな夫婦であれ、生まれてきた子供を迎え入れれば、親としてその子の人生に責任を持たなければなりません。
八ヶ岳の小説の中では、主人公のカップルは、他の男にヒロインを寝取られ、彼女が出産に至ってしまった後、その後の人生まで描いていることが度々あります。
ほとんどの場合、主人公はたとえ自分と血のつながらない子供であっても……たとえ憎い男と妻が結ばれて出来た子供であっても……その子供のことを愛します。
寝取られる主人公は妻を一途に愛する誠実な男であるという理由がそこにはありますが、それ以上に、妻が他人に寝取られて生まれた子供を愛することが、寝取られ男には本能としてプログラムされているからです。
つまり私の見て来た経験では、寝取られ夫には、妻が他の男に寝取られ、女として身体を奪われるという事実を快感に感じるだけでなく、妻が寝取られて産まれた子供を自らすすんで育てるところまで、本能の中に組み込まれているように思います。
小説の中ではそのように、寝取られ、妊娠、出産までをリアルに描きたいと思っていますが、実際に自分達の人生の中では、子供に関することは、自分達の下半身の性癖を見つめながら、真剣に考えてきました。
ですから私達の私生活、家庭、子供については、極力こういった場には書きません。
しかし、そこにはいつでも激しい葛藤があるということは、書き記しておきたいと思います。
私達のような変態夫婦が、果たして人の親になっていいのだろうかということに関して、私達は真剣に悩んできました。妻の真由子は【ヤラれ上手】とも言うべき天然エッチ女で、どんな事態になっても受け入れてしまうような女性特有の強さがありますが、少なくとも私はずっと悩んできました。
私は、命が生まれるということは神聖なことだと今でも考えています。
妻の真由子の股間には、これまで何十本、いや、百本以上の男のオチ○チンがひっきりなしに入り、彼女の子宮の中にはそれだけの人数の男性によって、何億という単位の精子がたっぷりと注ぎ込まれてしまっています。
(おすすめ出来ることではありませんが、妻はほとんどの場合にはゴムを使わずに男性に抱かれてきました。また相手の男性に中出しをお願いして断られたことは、今までにたった一度しかありません)
そんな使い込まれ、幾人もの男の精液が染み付いた、ある意味では汚れた妻の子宮に、大切な命を迎えて本当にいいのだろうか。本当に健康な子供が生まれるだろうか。そんな不安があります。
また、天然エッチに生きている真由子の奔放な性格が、母となるには向かない性格であることも、経験上よくわかっています。
そして子供が生まれたからといって、夫婦の下半身の性癖が治るわけではありません。
子供が生まれれば、すぐにまた、セックスがしたくなります。
そして私達の場合セックスとは、夫と妻ではなく、他人を交えて行うことになります。
子供のために、もう乱れた生活は止めようと思っても、そうした性癖を自分達で止めることは難しく、遅かれ早かれ彼女の中には他人のオチ○チンが入ることになります。
実際に私達も何度か、もうこんなことはやめようと決意したことがありますが、一年は大丈夫でも、二年とは持たず、それが真由子の浮気にせよ、私の妄想の結果にせよ、やはり気が付けば真由子の股間には誰かのオチ○チンが入れられてしまっていました。そして一度入れられてしまえば、二度、三度、と繰り返し抱かれ、今度は別の男性と、今度は複数でと、どんどん乱れていってしまうのです。
そんな恥ずかしい性癖を持つ私達が、親としてきちんと子供を育てることが出来るのか、私は随分悩みました。
しかし同時に、寝取られ夫婦として奪われる快感を追及していくと、どうしても出産ということに行き着きます。
これは誰もがそうなるわけではなく、寝取られるべくして寝取られた、重度の寝取られ性癖の夫婦だけが、受け入れる事が出来る事実です。
寝取られ夫にとっては、愛しい妻が、他人に抱かれるだけでなく、他人によって妊娠させられる……そして出産に至るということは、究極の快感です。それは夫として、肉体的に妻を最後まで奪われる……行き着くところまで行き、取り返しのつかないところまで、その女としての身体を奪われてしまうという、寝取られの究極の形だからです。
そのことを考えると、私は股間が熱くなり、たまらなくなってしまいます。
私は、まだ若かった頃、真由子が初めて他の男に寝取られ、その男に配慮のない中出しをされてしまった時から、そのことをずっと考えてきました。私はその時、彼女がその男の子供を妊娠してしまうのではないかと心配で気が気でなく、また知らない間に興奮していたのです。
その時以来、私は、妻の真由子が他人に妊娠させられる様子をずっと想像してきました。そんなことがあってはならないと思いつつも、いつしか私は心の奥で、真由子が他人によって妊娠させられることを望んでしまっていたのです。そして、彼女が妊娠させられてしまうその場面を、この目で見たいと思っていました。
だからこそ、いよいよ結婚となった時、私はついにその願望を実現する時が来たと思い、他の男に真由子を抱いてもらうという禁断の「妊活」に夢中になってしまいました。
大切な妻が、女として他人に奪われ、行き着く所まで行ってしまう……それは考えるだけでぞくぞくするような、強烈に被虐的な、奪われる快感です。
私はその願望を妻に打ち明け、そして若かった私達の下半身は、歯止めがかからなくなりました。
結婚後半年の間、新婚時代に経験した数々の寝取られは、忘れることが出来ません。それはお互いの下半身が快感でぐちゃぐちゃになり、どうしようもなく痺れてしまうような、そんな経験でした。
大切な彼女が、ヤられまくり、妊娠させられ、そして産まされる。
女としての幸せや、母となる喜びまでも、妻の身体に刻み込まれる……
男のチ○ポによって、人生までも変えられてしまう。
しかしその時、私達夫婦は最大の快感を味わっていました。
その先にある答えはひとつでした。
出産とは、避けることの出来ない、寝取られの果ての終着駅なのです。
生物として子孫を残すという究極の行為。男と女の命がひとつになる究極の絆。
愛しているはずの夫ではなく、赤の他人である寝取り男が、愛しい妻と肉体的に結ばれて父と母となり、二人の遺伝子を持つ子供が、子孫として歴史の中に命をつないでいくのです。
寝取られとは、そんなかけがえのない命のリレーのバトンまでも、他人に差し出し、奪われてしまうという罪深い行為です。
けれどもだからこそ、そこには究極の背徳感があり、一般の夫婦には理解できないドラマがあります。
寝取られ性癖の夫婦にとっては、妻が他人と結ばれて出来た子供を産み育てることは、本能的な快感なのです。
それは他人には決してわからないことでしょう。
しかし寝取られ夫婦の間には、非常に複雑な、運命によって仕組まれたとしか思えないような男女の絆と駆け引きがあります。
夫の側にはたとえ自分が報われずとも妻に尽くしたいという本能的な献身の欲求があり、妻の側には自分にふさわしい男とセックスしてより良い子孫を残せるのであれば何を犠牲にしても構わないという、奔放な本能のエゴイズムがあります。
その反面、夫の側には自分に不相応な美人妻に捨てられることなく、他人に抱かれるとしても妻の美しい裸体を見続けることが出来るという利己的な計算があり、また妻の側にも、そんな夫の存在も、自分を求める数々の男も、また自分の運命もすべて受け入れるような、女神にも似た途方もないおおらかさと優しさがあるのです。
それがどんなに歪んだ形であっても、二人が愛で結ばれていることは事実です。
奪われたい、という願望。
妻を女として奪われ、他人の子供を産まされるという究極の寝取られの快感。
そこにある、人として、親としての葛藤。
どんな決断を下すかは、それぞれの夫婦次第でしょう。
たとえ夫婦がそう望んでも……他人との間に出来た子供を産み育てるということは、社会的に受け入れられないことです。だからこそ、そこには苦悩があります。
果たして他人の子供を産みたい(産まされたい)と思うほどの真性寝取られ夫婦が、世の中にどれほどいるかはわかりません。
けれども、子供を持ちたいと望む同性のカップルや、人工授精で子供を望む夫婦と同じように、どのような形であれ子供を産み育てたいと願う気持ちは、寝取られ夫婦でも変わりありません。
あるいは寝取られとは、夫婦の下半身の相性がよくなかった時に、最も自然で納得できる形で子供を授かりたいという選択なのかもしれません。妻がもっとも夢中になれる男性を相手にセックスして、その男性の子供を授かるという、少し行き過ぎた妊活なのかもしれません。
少子化が進む現代。
また性の形も多様化し、夫婦や家族の形も様々となったこの時代に、いったいどれだけの夫婦が、夫以外のタネによって出来た子供を産み育てているのか、私は興味があります。
ひょっとすると、そこにはこれから少子化の時代に向けて、人類が種を維持していくための答があるかもしれないと、私は思います。