現代社会では、LGBTQ、またセクシャルマイノリティーといった言葉と共に、性の多様性という事が頻繁に言及されます。
では、NTR(寝取られ)は、これらの性の多様性に含まれるのでしょうか。

ゲイ、レズビアンは同性間のセックス、性行為を意味するものであり、それらの行為は基本的に生殖を目的としません。
同性愛のカップルが養子をもらったり、人工的な手段によって子供を持つことはありますが、自らの遺伝子を残すという点においては、これらはセックスの大原則から外れます。つまりセックスとは、自らの遺伝子を未来に残すという子孫繁栄の法則が基になっているからです。

寝取られ性癖の男も、自らの遺伝子を次世代に残しません。
妻と他人がセックスする様子に興奮してしまう寝取られ性癖の男。妻が産むのは妻と他人の間に出来た子供であり、妻の遺伝子は未来に残りますが、夫である自分の遺伝子は残らないからです。

つまりはNTRも、子孫繁栄の法則からは外れた性の形だと言えます。
その意味では、寝取られ男も一般的なセックスの原則から外れた存在であり、ある意味でのセクシャルマイノリティーと言えます。私はLGBTQNTRという言葉を提唱したいくらいです。

セックスとは本来、生殖行為であり、子供を残すための仕組みです。

オスとメス。男と女。
そこにあるセックスの大原則、自然の法則は、すなわち生き残りのための競争です。

男たちは競い合い、戦い、その結果として強い者、優れた者が女を手に入れ、セックスをして子孫を残す。
男は、なるべく多くの女とセックスをして、出来るだけ多くの子孫を残そうとする。
女は、なるべく優れた、強く賢い男の遺伝子を求め、そしてまた自分の子孫が有利な環境で育ち繁栄するように画策するのです。

そうした生き残りをかけた熾烈な競争が、雄と雌という二つの性の関係の中にあるからこそ、そこにドラマが生まれ、策略が生まれ、裏切りが生まれ、その中で人類という種が進化していくのです。

適者生存、弱肉強食といった熾烈なレース。
動物は本能に従って生きるので、その自然の法則に基づいた性のレースに原則として全員参加となります。

しかし人間は自由意志を持った存在です。また人間には本能を上回る文化というものがあります。
ですので人類社会の中には、そのような自然の法則に基づいた性のレースに参加しない者が現れるのだと思います。
まったく参加しないわけではありませんが、様々な形でその本能のレースから距離を取るのです。

古代や中世といった、まだ宗教が厳格だった時代には、僧侶、修道士、修道女といった人々は、妻帯や結婚を禁じられ、生涯を処女、童貞として過ごす事が正しいとされていました。彼らは男と女という子孫繁栄の法則からは外れていますが、社会的に意義のある存在だと見做されていたのです。

それと同様に、セクシャルマイノリティーといった人々も、子孫繁栄には必ずしも貢献しませんが、社会全体で見た場合には人類社会のより良い発展のために必要な存在なのかもしれません。

寝取られ夫は、そのような人類社会の多様な性の在り方の中で、ひときわユニークな存在です。
同性愛ではないものの、自らの遺伝子を残さない方向に本能が働いてしまうという点においては、LGBTQと同等に、いやそれ以上に不思議な存在かもしれません。しかもその性癖の中には、心から愛する大切な女性を他人に奪われるという悲しみを伴うのですから、非常に哀れな存在です。

寝取られ夫は、子孫繁栄を賭けた男と女の性のレースに参加していません。レースを棄権して、ベンチから試合の様子を眺めているだけです。寝取られ夫は、リングサイドで男女のセックスの試合を見守ります。リングの上では、愛する妻が他の男を相手に熱い試合を繰り広げています。夫はリングサイドから妻に声援を送り、時に励まし、そしてオナニーをしながらその試合の結末を見届けるのです。(実際、寝取られプレイの場における夫の役割は、まさにセコンドそのものだと言えます)

試合の結末は最初から決まっています。見知らぬ男を相手に……時には何人もの男を相手に……女である妻は手も足も出ず、大敗北を喫します。陥落した彼女は、服を脱がされ、押し倒され、あられもない格好にされ、恥ずかしいポーズを取らされ……そして身も心も降参してしまい、相手の言いなりとなって、男達のすべてを子宮の中に受け入れてしまうのです。

その様子を眺めながら、嫉妬に涙を流し、敗北感にまみれ、悔しさに歯噛みしつつも興奮してオナニーを始めてしまうベッドサイドの夫は、なんと哀れで情けない立場でしょうか。

このように寝取られ夫は、子孫繁栄の法則から外れた存在です。
しかし、女の立場、寝取られる妻の立場から見れば、実は「寝取られ」は子孫繁栄の法則に反していません。
何人もの男に抱かれてしまう妻は、結果的に多くの男の遺伝子を取り入れる機会に恵まれ、最終的にはその中から肉体的にもっとも相性のいい男の子供を産むことが出来ます。
それらの男はほぼ例外なく、夫よりも強く優れた遺伝子の持ち主です。女として、相手の遺伝子を取捨選択し、また幾人もの男との間に子供を作るという意味においては、「寝取られ妻」は非常に有利な立場にあるのです。しかも「寝取られ夫」は絶対に浮気をせず、妻に尽くす存在ですから、他人との間に子供が出来た後も、夫は妻と子を忠実に守り育てます。

男を選ぶ自由度、多くの男とセックスをする機会、もっとも強い男の子供を産む確率の高さ、生まれてきた子供を守ってくれる誠実な男性の存在、そして夫に一途に愛される精神的な充足。「寝取られ妻」は遺伝子の競争の中では、女として、ある意味ですべてのカードを持ったチート的な存在なのです。

肉体的に優れた男は、性的な魅力も豊富であり、そのような男性は浮気をしがちです。
女性はそのような魅力的な男と結ばれたいと願いますが、モテる男は浮気症であり、自分のもとに留まらず、他の女のもとへと去ってしまうリスク、自分を守ってくれないリスクがあります。

けれども「寝取られ妻」にはこのようなリスクは関係ありません。たとえモテ男が自分のもとを去っても、自分を守ってくれる男を別に確保しているからです。自分が何人の男と浮気をしようとも、怒るどころかかえって興奮して喜んでしまう「寝取られ夫」が、献身的とも言える愛情で傍にいるからです。ですので「寝取られ妻」は、心置きなく男を選び、浮気をして様々な男のチ○ポを味見し、その中から肉体的に最も魅力的な男との間に子供を作ることが出来ます。

献身的な「寝取られ夫」という自分を守ってくれる男との長期の関係があるので、一晩だけのセックスという短期の肉体関係を、多くの男と結ぶことが可能なのです。

このように寝取られ夫は自分の遺伝子を残さないという意味では自然の法則に反していますが、妻の立場から見れば、「寝取られ夫婦」は大きな意味で子孫繁栄の法則に従っているのです。

一般的な夫婦関係の中で、夫にはふたつの役割があります。

ひとつは女としての妻を守ること。
つまり、女性として魅力的な妻の肉体を、他の男性の手から守ることです。妻は俺だけのものだと主張すること。妻の身体に他の男性が手を出さないように守るという役割です。
これは、自分だけの女として妻と肉体関係を結び、自分の子供を産ませるということにつながっています。

もうひとつは、妻子を養い守ること。
母親となった妻と生まれてきた子供を守り、育て、面倒を見て養っていくという役割です。ここには、妻や子に愛情を注ぎ、精神的に充足させる事も含まれています。

寝取られ夫には、後者の能力はありますが、前者の能力がありません。
妻を愛し、養い、その子供を育てることはしますが、女としての妻の肉体を他の男から守ることはできないのです。

寝取られ夫は、大切な妻の身体を他の男の手から守ることが出来ません。
出来ないどころか、むしろ妻が他の男に抱かれることを奨励し、それが快感となり、夫自ら、妻がいちばん喜ぶ男性を探してきてしまうのです。
その結果、妻の身体は幾人もの男性に抱かれ放題となり、その中で自然の選別が起こります。妻の身体を通じて、セックスの中で適者生存の法則が働きます。

結果的にそこで選ばれるのは、強い男。絶倫で生命力に満ち、たくましい体を持ち、チ○ポの大きい男性です。そのようなパワフルな男性はモテ男であり、社会的、経済的にも高い地位にあることが多いものです。複数の愛人を持ち、子供もたくさん作っているでしょう。レースの勝者であるこの男性にとって「寝取られ妻」は、数多い愛人の一人に過ぎず、また彼女が産んだ子供も、複数の女性に産ませてきた何人もの子供の一人に過ぎません。

モテる男である男性は他人の妻であるはずの「寝取られ妻」に自分の子供を産ませ、モテない男である「寝取られ夫」は大切な自分の妻を女として奪われました。
強い者、優れた者は、さらに多くのものを手に入れ、弱者は自分の大切なものすらも奪われる。ここにあるのは、そのような残酷なまでの弱肉強食の現実です。
しかし寝取られ夫婦は、その事実を悲しんでいるのではなく、その事実に快感を感じているのです。おそらくは正常な夫婦が生涯知ることのないほどの、強烈な快感を。

夫の前で、チ○ポの大きな絶倫男性に抱かれ、徹底的に感じさせられる。
目の前で、愛する妻が他人に抱かれ、身も心も、女としてのすべてを奪われる様子を見せつけられる。
妻は罪の意識を持ちつつも快感の天国に強制的に昇らされてしまい、夫は嫉妬に胸を焼かれながらオナニー地獄に落とされます。
一般的にはそれは悲劇ですが、その中で寝取られ夫婦が感じている被虐的な快感と興奮は、決して他人には理解できないほどに強烈なものなのです。

寝取られ性癖を持った夫婦。夫は自分の遺伝子を残すことが出来ません。
女としての自分の妻を、夫自らセックスの強者に差し出してしまうのです。
しかし結果的に、妻は肉体的に優れた男性に抱かれ、強い遺伝子を持った子孫を残します。

ですから社会全体で見れば、「寝取られ夫」は、種の保存の法則==男と女のレースの中で、優れた遺伝子を残すという法則をむしろ効率よく加速させていると言えます。

同性愛では、オマ○コとオマ○コ、あるいはチ○ポと肛門という関係になるので、セックスは子孫繁栄の法則には当てはまらず、原則として子供は出来ません。
しかし寝取られセックスでは、妻のオマ○コの中にはちゃんと男のチ○ポが入り、そのチンポは妻の子宮の中に精液を注いでいきますので、子供が出来て子孫繁栄します。

そこにあるのはち○ことま○この関係であり、それは自然の法則から何ら外れてはいません。ただ、妻のおま○こに入るのが、夫のものではなく、他人のち○ぽだというだけの違いです。

(寝取られセックスは、中出しとなる事が多いようです。責任を伴わない行きずりのセックスが多いこともその理由です。また世間には、人妻キラーと呼ばれる、人妻を寝取ることが趣味の男性が多くいます。他人の妻を寝取る場合、妊娠した場合には夫の子供という事になりますので、男は遠慮なく精液を発射することが出来ます。だからこそ他人の妻を奪うのはやめられないのです。他人の妻に中出しする快感は、寝取られの被虐的な快感と対を成す禁断の快感です。まさに奪う者と奪われる者の関係だと言えるでしょう)

そういった意味では、寝取られ男(NTR)は、LGBTQの概念には入らない存在かもしれません。
彼は単純に、男と女というセックスのレースの敗者なのです。
試合を自ら放棄し、レースを棄権し、戦うことなく敗れてしまう。
そして、その敗者となることが癖となり、敗北の結果、大切なものを奪われることがいつしか快感となってしまった哀れな弱者こそが、NTR男です。

健康な男性、強い男から見れば、このような男はまさに雑魚。戦うことなく勝てる相手です。
一喝するだけで相手は降参し、「はい、どうぞ、私は負けました。どうか妻を好きなように抱いてください」と言って、自ら隣にいる妻を差し出すのです。

しかも、そのようなひ弱な男に限って、優しい、誠実、癒されるといった精神的な理由により、純情できれいないい女を連れているのですからたまりません。

弱い男が、いい女を連れている。これは自然の法則からすればアンバランスです。
これは人間が精神的な文化を持つ生き物だからこそ生ずる状況です。
アンバランスで不自然な状況だからこそ、「寝取られ妻」は、純情で初心でかわいらしく、美人でいい身体をしているのに、男性経験は極端に少ないものです。

しかし、そのアンバランスな状況は、やがて是正されます。
夫と妻の間にある不自然なギャップは、周囲の男達を苛立たせ、彼らの本能に訴えかけます。
いくら人間が文化を持つ精神的な生き物であると言っても、しょせんは動物であり、肉体の本能から逃れることは出来ないからです。

そして夫婦の持つ危ういアンバランスさと男女間のギャップは、やがて男達のチンポによって、そして脱がされた妻が上げる快感の声によって、埋められていくことになります。

たとえ夫婦の愛が本物でも、生涯優しい夫ひとりだけ、などというふうにはなりません。
純情だった妻の男性経験は増えていき、逞しい男達との激しいセックスによって身も心も染められ、やがて夫を置き去りにしたまま、妻は体で男を、世間を、そして世界というものを理解します。

妻が女として陥落してしまった後。
夫の取るべき道は二つあります。
彼女をあきらめ、妻と別れるか。その場合には男として再起の可能性があります。

あるいは、彼女をあきらめられず、それでも傍にいることを選ぶのか。その場合には、夫は男として自分の大切なものを放棄しなくてはなりません。つまり男を捨てるのです。
男としての大切なものと引き換えにしてもいい、それでも彼女をあきらめられない。それほどまでに精神的に深く一人の女性に純愛をしてしまった男が、寝取られ夫になるのではないかと私は考えています。

最弱夫と美人妻の不均衡なカップルは、やがてはこうなる運命にあります。
二人の間にある愛情が精神的に純粋であればあるほど、こうなってしまいます。

このようなアンバランスなカップルが生まれるのは、人間が精神と肉体の両方を持つ生き物だからです。
その精神と肉体のギャップこそが、寝取られの醍醐味だということが出来ます。