寝取られたセックスは神聖
不思議に思われるかもしれませんが、寝取られ夫とは純情なものです。
妻のことを純粋に愛し、かけがえのない大切な存在だと思うからこそ、そんな彼女が他人に奪われてしまうことが快感になってしまったのです。
私はセックスは神聖なものだと考えています。
私が寝取られセックスの性癖に目覚めたばかりの頃、勘違いしていたことがあります。
私と妻(当時はまだ結婚前ですので、恋人です)が二人でするセックスは神聖なもの。
私と妻がするセックスは、ロマンチックで愛があるもの。
そしてもし、まったく関係のない赤の他人が妻の肉体に欲情し、妻を無理矢理に抱いたとすれば、それは愛もロマンもない、劣情だけの卑劣で汚いセックス。
寝取られ性癖に目覚める前、私が妻に恋して、彼女のことを誰にも取られたくないと思っていた頃には、私はそう考えていました。
だからもし、大切な恋人の真由子が、どこかで男にヤられてしまったら、それは下劣な行為だと思い、そんなことがあってはいけないと思っていたのです。
けれども現実は違いました。
たとえば、真由子が夜、帰りが遅くなり、どこかでチンピラの男達に囲まれ、人気のない場所に連れ込まれ、したい放題にされてしまったとします。
その時、無人の倉庫の中で行われるセックスは愛のない下劣なセックスではありません。
その日、倉庫の中で夜通し繰り返されるのは、愛の行為です。
薄暗い倉庫の中は、その夜、愛の天国となります。
男達は、身分も、立場も、年齢も、肌の色も関係なく、等しく順番に、真由子と愛の行為で結ばれていくのです。
関係のない、妻の名前さえ知らない赤の他人が、妻を見て欲情を覚え、欲望のままに妻の肉体を抱いた時。
夫(彼氏)である私の立場からは、それは愛のない、下劣なセックスだと思いたいのです。
それは男として、自分だけは特別だと思いたいという、いわば夫のエゴです。
しかし、現実はそうではなかったのです。
妻が他人に抱かれてしまった時。
それは下劣などではまったくなく、美しく神聖な行為でした。
私が目の前で初めて見せられた、彼女と他人とのセックスは、私と彼女がするのと同じように、いやそれ以上に、神聖で愛のあるセックスだったのです。
愛、それは恋愛ドラマやヒット曲の歌詞のような軽々しいものではありません。
それは男と女という存在そのものを見せつけられるような行為でした。
生々しく、美しい肉体が絡み合い、ぶつかり合う、生命、存在、絆、そして運命といった言葉でしか説明が出来ないほどの、運命的で美しい行為でした。
それは夫婦とか、恋人とかいった言葉では説明がつかない、男と女が出会って命と命でつながり、命によって結ばれる神聖な儀式だったのです。
もちろんそれは、私が短小で、自分では本当に妻を満足させるセックスが出来ないからかもしれません。
妻が浮気を経験し、他人に抱かれて初めて本当のセックスを知ったように。私もまた、妻が他人に抱かれる様子を目の前で見て、本当のセックスというものを知ったのです。セックスという行為の持つ意味や、神聖さも含めて、目の前で見せつけられたのです。妻を奪われることによって。
たとえ見知らぬ相手に、無理矢理に、いい加減な気持ちでヤられてしまった時であっても。
野外で、私達が望んでいないのに、男性達に押し切られ、半ば無理矢理にヤられてしまった時であっても。
男の手が妻に触れ、妻の服を脱がせていけば、それはもう、心がときめく運命の瞬間となり、男と女の恋となり、秒単位で進展する出会いとなり、やがて愛の行為になっていってしまいました。袖振り合うも他生の縁と言いますが、男と女の間では、肌が触れ合い、唇が触れ合い、胸や股間に触れられ、そして抱き締められれば、それはもう一分一秒の間に立派な「ご縁」へと変わっていってしまいます。
そして、男性の立派な男根が妻の中に入ってしまえば、それはもう、愛も恋ももはや関係がない、重い意味を持つ神聖な命の儀式になってしまうのです。たとえ人気のない河原に連れ込まれ、橋の下、街灯の光が水面に反射する薄暗い空間で、真由子がコンクリートの壁に手を着き、スカートをまくられて立ったまま後から入れられていたとしても。男女の肉体がひとつになってしまえば、それはもう運命としか言えない、男と女の命の儀式だったのです。
夫婦の寝室で行ったセックスも、ラブホテルのベッドで行ったセックスも、夜の河原で橋の下で行われたセックスも、それは等しく重大で、神聖なものでした。
むしろ名前も知らないからこそ、そして強引に連れ込まれた果ての行為だからこそ、男と女が結ばれてしまうことは運命というべきものでした。
それは私の妻である真由子が、本質的にエッチで、男を拒む事を知らない、そんな女だからかもしれません。
けれども、行きずりの男性であっても、寝取られであっても、あるいは無理矢理であっても、真由子が男に抱かれた時、そこには確かに男女間の愛が生まれていました。
彼女が、女として、そして雌として、相手を受け入れてしまえば。セックスという本能の行為には抗えず、あとは運命と生命の神秘に身を委ね、愛の奔流の中へ流されていってしまうのです。
それは取り返しのつかない行為です。
名も知らぬ男と、私の大切な真由子が、愛で結ばれます。運命の行為で、生命の行為で結ばれます。
無理矢理のはずだったのに、赤の他人のはずだったのに、裸で互いに抱き合う二人は、夫の私など置き去りにして愛の天国へと行ってしまいます。
たとえ相手がどうでもいい男であったとしてもです。
抱かれてしまえば、どこにでもいるチンピラや、通りすがりのモブキャラなどではなく、互いの左足の小指が赤い糸で結ばれた運命の相手となってしまいます。
ザコキャラのはずのチンピラが、大切な運命の相手に格上げされてしまいます。
裸になって、肌を重ね、唇を重ねてしまえば。
セックスとはそれほど重大で、取り返しのつかない、神聖な行為なのです。
そんな神聖な生命の儀式を、自分ではなく、赤の他人が妻にしてしまう。
憎い男が、かけがえのない運命の相手として、妻と結ばれてしまう。
男と女が結ばれ、中出し射精という神聖な行為でひとつとなる時、二人の間には絆が生まれ、たとえ戸籍上は他人であっても、二人の肉体は、生命の上では夫婦(めおと)となって結ばれるのです。そして、その絆の結果、二人の間に新しい命が授けられ、女の子宮の中に子供となって宿るのです。
私は、そんなふうに、大切な真由子が、目の前で赤の他人と肉体的に「夫婦」(めおと)になってしまうシーンを何度も見守ってきました。
それは、非常に美しく、感動するほどに神聖なものです。
たとえ、妻の相手をするのが私以外の男……赤の他人であったとしても、その立派な男根を見れば、私はこれでいいと思い納得してしまうのです。
私の不完全な短小では、妻とこれほど見事に結ばれることはあり得ないのですから。
そして、妻にとっては、相手の男性はもう赤の他人ではなく、愛を交わした運命の人なのですから。
寝取られ夫である私も、私の見る前で妻を抱いていった男性の事を、しっかりと覚えています。(見ていないところで妻が抱かれた場合は、なるべく詳しく妻から聞き出します)
たとえ最初は、ぱっとしない男性であったり、なんだか嫌な感じの男、苦手なタイプの男だと思っていても、妻が抱かれ、感じさせられ、妻と男女の関係になって結ばれてしまった後には、嫉妬や悔しさと共に、男性に対する敬意と、男としての逞しい肉体への憧れが生まれます。
それは、男性が妻とセックスという生命のやりとりをする中で、男として本能で妻を愛してもらううちに、男性の生命力そのものを感じ、その男性の本質が見えるからではないかと思います。
ああ、真由子、真由子、抱いてもらってよかったね、立派な男性に愛してもらってよかったね、そんなふうに思ってしまうのです。
そして、満たされた真由子は裸のまま、快感の余韻に浸りながら、頬をピンクに染めて幸せそうに横たわっています。美しい女神は男性に愛され、彼女は今まさに天国にいるのです。
もしあなたが寝取られに興味があり、あなたの大切な奥様や恋人が他人に抱かれてしまうとしても、セックスは単なる遊びではなく、欲望を満たすだけの気軽な行為ではないことを覚えておいてください。
たとえ一度きりのセックスであったとしても、男と女が裸で抱き合い、本気で愛し合えば、それは冗談ではすまない生命のやりとりとなり、運命によって結ばれる神聖な行為になってしまうのです。
そして、そんな一度きりのセックスで、女性は変わってしまいます。
たった数時間の間に、彼女は男と愛で結ばれ、運命の相手として永遠に結ばれてしまいます。
たった一晩の間に、彼女は本当に、他人のものになってしまうかもしれないのです。
セックスとはそれほどに神聖で、重大で、そして気持ちいいものです。
寝取られ夫に出来るのは、他人と妻がそんな気持ちいいセックスをしてしまう様子を、目を皿のようにして眺めることだけです。